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廃止線・廃線跡

昭和62年の夏。富山に転校していった友人を訪ねて、一人で電車に乗り込んだ。そのとき私は中学生だった。

富山駅で無事に落ち合い、市電に乗り込んだ。当時彼の家は、終点の大学前駅から徒歩で数分の場所にあった。 途中、「新富山駅前」という奇妙な名前の電停があった。「駅前?」とたずねると、彼はああ、前にここに電車が走っていたんだって、とこともなげに答えた。 見ると電停の目の前に朽ち果てて崩れそうになっている「駅だった建物」があった。 それを見た瞬間、私の気持ちは昂ぶった。なんだろう、いったいこの気持ちはなんだろう?

強烈に印象付けられたその「廃墟」は、それからの廃線行脚の始まりだった。 身近な廃線を調べ上げ、少しずつたどるようになった。 当時廃線に関する書籍は皆無に等しく、こんなことをやっているのは自分だけだろうとさえ思っていた(それは単なる無知であった。後述する)。

そのままの形で残されていた、水害で廃止になった松本電鉄の島々駅跡。 バス路線図には駅名までしっかり書かれていたのに、何もなかった静岡鉄道大井川駅跡。 駅入り口の看板がそのまま残っていた、清水港線三保駅跡。 私より一足先に関西の大学に入学した友人のK野くんは、図書館に残っていた古い地図を駆使して関西地方の廃線レポートを数々送ってくれるようになっていた。 浪人中横浜に住んでいた私は、出かけたい気持ちを抑えつつ、平沼駅跡や桜木町から見える貨物線の跡を眺めて過ごしていた。

そんな最中、受験勉強の息抜きにと乗りに出かけた湘南モノレールの大船駅付近で、とんでもないものを見つけてしまったのだ。

……モノレール?

どう見てもモノレールのレールとしか思えない金属製の高架が、駅の北から山すそを縫って消えていくのを見た。 今ではいわずもがな。それが、ドリームランドモノレールの廃墟だった。 当時は、大船駅にも駅舎が残り、何かの工房として使われていた。内部に入ることはできなかったけれど、その強烈なさびた建物は私の気持ち奥深くに刻み込まれた。

宮脇俊三氏が、著作でことあるたびに書いていることがある。 廃線めぐりをする前に、古い地図と新しい地図を見比べて、新しい地図に路線を書き込んでいくのだ。それが、実に楽しいと。 これはよくわかる。最初に読んだとき、そうそう! と膝を打った。

それから堀淳一氏の存在を知った。著作を片っ端から集め、眺め、熟読し、感慨にふけった。こんな大先輩がいらっしゃったのか。 鉄道雑誌を丹念に見ていくと廃線跡のレポートも見つかった。 その後、いつのまにか、新しい「ブーム」として廃線跡があちこちで取り上げられるようになってきた。

日本全国の廃線跡の現状をくまなく、詳細にレポートされた文献を読んでしまうと、訪れて偶然出会う廃駅の感慨から遠くなっていく。 そこに何かがあると知っていてでかけるのと、そこに何があるかわからないままでかけるのでは、天と地ほどの差がある。 あらかじめ何があるか知っていてそこに行く。それは単なる「観光」だ。 観光を否定するわけではない。が、私が求めているものは、それではない、というだけだ。 たとえばJTB出版局の「廃線跡を歩く」シリーズを非難するつもりはない。私だって全シリーズ購入して熟読しているし、それはそれで充分面白かった。 が、私に現地に赴かせる魅力は失われた。それだけのことだ。

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